落語

落語2

昭和33年生まれの僕にとって、初代林家三平はヒーローだった。
奇しくも、三平師は1958(昭和33)年に真打ちに昇進している。
テレビ放送の黎明期に、落語家でありながら司会者として瞬時に笑いをとる天才として評判がうなぎ登りになった。昭和の爆笑王の異名をとったのが林家三平だった。
僕はまずテレビで林家三平に夢中になった。
幼稚園児でも笑える話術と仕草は、高度経済成長の日本の希望とオーバーラップしていたに違いない。
現代のビートたけしと、笑福亭鶴瓶と、所ジョージを掛け合わせたような人気者だった。
小学生になった頃に、僕は林家三平が落語家であることを認識する。
僕は台東区浅草で生まれ、三ノ輪で育った。
通りひとつを隔てると、町名は根岸と変わる。
その根岸に住んでいるのが林家三平だった。
テレビで観る、憧れの爆笑王が隣町に住んでいるのだ。
さらには、すぐ近所の上野や浅草の寄席に行けば、林家三平が高座に上がる姿を、その話術を生で聴けるというか、観られることは僕を寄席に惹きつけるきっかけとしては、もう充分だった。
こうして中学生の頃には、上野の鈴本演芸場や、浅草演芸ホールや、まだ残っていた上野の本牧亭に通うことになる。
林家三平が目当てだった。
失神するほど笑わされる。
寄席の化け物と称された林家三平は、たしかにすごかった。
他の出演者は影のように思えた。
はずだったが、金原亭馬生や、古今亭志ん朝や、柳家小さんや、三遊亭円生や、何より立川談志が、その頃の寄席には高座に座っていたのである。
この名を読むだけで、うなずく人たちには説明なんか要らないだろう。
僕のライフスタイルは、小説からの影響が大きいが、もっと僕の芯の部分に影響を与えてくれたのが、落語だ。
大学生になった頃には、寄席通いは僕の病気のようなものだった。
枯渇した精神に、落語が必要だった。
落語と聞けば、笑点しか知らない人は人生の大部分を損していると思う。
落語と聞けば、笑える演芸だとしか知らない人も人生の大部分を大損していると思う。
人情噺というジャンルが落語にはある。
「芝浜」「鼠穴」「文七元結」「紺屋高尾」「富久」「火事息子」
ここにはストーリーの詳細は書かない。
笑うための話芸だと思われている落語には、泣かされてしまう話芸もあるということだけを知って欲しい。
不思議なことに、落語家が下手だと、どんなに名作であっても笑えないし、泣けもしない。
不思議なことに、落語家が上手いと、何回も聴いている落語なのに、笑わされるし、泣かされる。
それはストーリーの力ではない。
ひとえに、話芸という芸の力なのだ。
それを教えてもらったのが寄席であり、そこで語られる落語だった。
僕は、小説を書くときに、頭のなかでしゃべっている。
気がつくと、自分が構想したストーリーを、自分が落語家になったように、自分に向かって、語っている。その話芸を僕は筆記しているに過ぎない。
文学と言いたくない。
文芸と言いたい。
僕の文章は、学ではなく、芸なのだ。
思春期に、落語を身体に叩き込まれたことが僕の人生を決めてしまった。
そう振り返ると、幼稚園から小学生の頃は、爆笑できる滑稽噺に魅了されていた。
中学生から高校生の頃には、涙を流せる人情噺にのめり込んだ。
大学生の頃までその熱は覚めずに、もっと泣かせてくれる落語家を求めて、寄席に通った。
多分だが、立川談志がいなかったら、僕は作家になっていなかっただろう。
談志が語る世界を、文章に置き換えたのが、僕の執筆の原動力なのだ……、多分。
そうして歳を重ねてきたところで、落語の聴き方が変わった。
爆笑する噺でもなく、恐怖に震える怪談噺でもなく、涙を流す人情噺でもなく、何ということのない小ネタ噺が、日常の世間話のような落語が面白いと感じるようになってきた。
人生は大冒険をするのが目的ではなく、ただ淡々とその日を暮らすことの方が大切である。
その大切なことが、案外に難しい。
人生においては刀剣を抜いて、命がけの斬り合いをすることよりも、刀剣など抜かずに、敵と思えるモノを微笑みながらやり過ごすことの方がはるかに大切で、それがなかなかに難しい。
金持ちになって、有名人になって、人から尊敬を集めて、美貌の才女と結婚をして、出来の良い子供たちに恵まれて、美味しい料理を毎食ごとに食べられて、世界を相手にする。
そんな冒険に満ちた人生観も落語にはある。
貧しさに苦しんで、誰にも知られず、他人からさげすまれて、恋愛も結婚もできずに、家庭を持つ夢も消えて、食費がないことにおびえる。そして世界と自分は何の関わりもない。
そんな悲嘆を包み込む世界観も落語にはある。
そんな振れ幅の大きな芸が語られるいっぽうで、
「ああ、今日も日が暮れる。何ごともなかったなぁ」
と、当たり前に呼吸をするだけの、安堵の息づかいのような落語も語られるのが寄席だ。
「厩火事」「金明竹」「あくび指南」「三人旅」「安兵衛狐」「ぞろぞろ」「薬缶」
演じ方によっては、大きな噺にもなるが、演じ方によっては世間話にもなる落語はけっこう存在している。
名人にばかり頼るのではない。
無名に等しい落語家が、寄席に来てくれた観客に、ご機嫌を伺う。
座布団から立ち上がり、楽屋に去ったあとには、何も残らない。
そんな落語が、何だかいとおしくなってきている。
何も残らないのに、客はまた、何を求めるわけでもなく寄席に通う。
落語の本質とは、日常そのものなのではないかと思うようになってきた。
うれしかったことを書いておこう。
僕の小説『噺家侍』は幕末の江戸に活躍した
三遊亭円朝を主人公にした活劇だ。落語1
大阪の朝日放送のSプロデューサーが、何と三代目・桂米朝師に『噺家侍』を手渡してくれた。米朝師は、読了してくれた。Sプロデューサーにひと言。
「これ……落語でしょ」
小説ではなく、落語だと認めてくれたというのである。
こんな自慢話を書いている時点で、僕は落語家にはなれないなと、ため息をつく。

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