ら抜き言葉

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僕は作家は、言葉を商う職人だと思っている。
そして言葉には、常に関心を持っているべきだと思う。
だから僕は、言葉についてよく考えることにしている。
さらにいえば、間違った言葉遣いをする、ましてや書くなどとは言語道断だと信じている。

あとで後悔する……なんて自分でもうっかり使ってしまいがちだが、「あとで悔やむ」か「後悔する」のどちらかにしないと二重表現である。

で、長きにわたって僕は「ら抜き」表現が気になってしかたなかった。
「来られる」→「来れる」
「食べられる」→「食べれる」
「見られる」→「見れる」
のたぐいである。

「もうこんな景色のいいところなんか、絶対に二度と来れないよねぇー」
「あのう、まだ冷やし中華、食べれますか?」
耳にするたびに、ムッンと、発言した人を見てしまうこともしばしばだ。

すでに民放のアナウンサーなどは、この「ら抜き」言葉を平気で発言している。
さすがにNHKではと思っていたら、ブラジルワールドカップの試合のときに、サッカー解説者がやたらと「ら抜き」言葉で発言を繰り返していた。
そろそろ市民権を得て、かつて活字媒体が「でせふ」と表記していたのを「でしょう」と表記するようになったように、雑誌や書籍でも「このランチがたった500円で食べれる」と堂々と表記するようになるのだろう。

だが、僕にはどうしても違和感があるのだ。標準表記はやはり「食べられる」である。

さて本題。どうもこの「ら抜き」表現は、中部地方では当たり前らしい。
いご昭二画伯は、熱烈ドラゴンズファンで「……みゃー」「……でかんわ」の名古屋弁というか、尾張弁というか、とにかく中部地方出身を誇りにしている「えびふりゃぁー」の人なのであるが、ついこの間、矢場とんという「味噌カツ」をメインにした食堂が東銀座にあるというので、連れて行かれた。
「うみゃぁでかんでしょうが」
「これこそ日本一の味だがね」
「でぇ、中日ドラゴンズは、東京のなんとかいう金ばかりで選手をかきあつめとる球団に勝ちてまったか?」
と店員と気さくに、かなり上機嫌で会話をしていた。

東京出身の僕には理解できない空気があった。
そこでいご画伯からふと、こんな発言を耳にしたのである。
「東京に来たばかりの頃は、来れるのことを来られるとかいうでしょうが、あれが気持ち悪くてねぇ。普通、来れるというでしょうが?」
「あの、食べられるとか回りくどく舌を噛みそうになる言い回しは、気取った東京弁だがね。ふつうは食べれるでしょが……」

……ははぁ、もしかしたら「ら抜き言葉」は名古屋人が、というか中部地方出身の人たちが持ち込んだのだろうか。たしかにら抜きは滑舌に楽な発音になる。
そして「食べられる」と表現した場合。それが「尊敬」の助動詞なのか「可能」の助動詞なのかはたしかに語感から察するしかないが、「食べれる」となると、これは「可能」の助動詞に限定される。

僕のノートには30年ほど前に「ら抜き言葉」は若年層で発言されるようになったと記録されている。20年前からは中年層も使うようになってきている。
そしてこの10年ほどは、むしろ「ら抜き言葉」を使う人の方が増加している観がある。

もう「ら抜き言葉」を使うのは「やめれん」ようである。
30年ほど前に、中部地方出身者の東京標準語圏への民族大移動でも起きたのだろうか。

新幹線の普及あたりがあやしい気がするのだが、皆さん……そうは「考えれませんか?」

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