リチャード・ジノリ
(イタリア)

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フレンチコーヒーに出会ったのは、20歳のときだった。

渋谷駅を降りて、國學院大学へ通う道とは正反対の方角にあるレジュ・ドゥというカフェに通い詰めた。
1978年当時で、小さなカップに1杯のコーヒーが500円だったから、なるほど高い。
國學院大学の学生食堂で300円もあればトンカツにサラダにスープまで食べられた時代だ。

地獄のように黒く、悪女のように薫り高く、記憶の断片をさぐるかのようにかすかに甘く、明日への不安を消し去る魔法のように苦い濃いコーヒー。
ネルドリップで丁寧に淹れられるフレンチコーヒーに僕はすっかり参っていた。

ページを開くのは、大学の講義とはまったく関係のない、心理学の書籍だったり、スタンダールの小説だったり、アンリ・カルティエ・ブレッソンの写真集だったりした。

レジュドゥのコーヒーが注がれるカップは、世界各国の名窯磁器だった。
ロイヤルコペンハーゲン(デンマーク)、マイセン(ドイツ)、スポードやウェッジウッド(イギリス)、ヘレンド(ハンガリー)、そしてリチャード・ジノリ(イタリア)……。
どんなカップでコーヒーが運ばれてくるか、それはおみくじを開くときのドキドキに似ていた。

でも20歳の僕には、どうにか背伸びして500円のコーヒーを飲むことはできても、たった1客で数万円のコーヒーカップを買うことなんて、とうていできなかった。

それから数年が過ぎた。
週刊朝日の記者になって、何度目かの原稿料で買ったのは、パーカーの万年筆とリチャードジノリのコーヒーカップだった。

僕は、どうかしていたに違いない。

たった1本の原稿を書くために、早朝から深夜まで、張り込みや追跡や突撃までする取材と、徹夜で原稿用紙に文字を埋める執筆。デスクから叩き返される原稿。
どうにか掲載されても、たった数日で皆んなの記憶から消えてしまう記事。
意識を失う寸前まで原稿を書く日々は自覚はなかったけれど過酷だったに違いない。
だから僕は、生活費に充てなければいけない原稿料を、たった1本の万年筆と、たった1客のコーヒーカップに散財してしまったのだ。1ヶ月の生活費はこうして消えた。

リチャード・ジノリ。
1735年にトスカーナ大公国のカルロ・ジノリ侯爵が磁器窯を造らせた。鉱物学に造詣が深かったジノリ侯爵は自ら原料土を捜したり、ペーストの生成や発色等の磁器の研究を行い、イタリア初の白磁を完成させた。
1760年頃にトスカーナのとある貴族の為に造られたイタリアンフルーツ。
白磁に、プルーン、チェリー、洋ナシ、ザクロ、無花果などの果物が描かれたデザイン。
ひとつ一つが、職人による絵筆での手描きなので、1客として同じデザインのカップもソーサーも存在しない。

あのクタクタになって原稿に追われていた日々から、イタリアンフルーツを購入した日から、全財産をたった1客のコーヒーカップに費やしてしまった日から30年が過ぎた。
そして今日も僕は、リチャード・ジノリのイタリアンフルーツのカップに自分で点てたフレンチコーヒーを注ぐ。

30年が過ぎても、イタリアンフルーツのデザインに飽きることがない。
考えてみれば250年以上も、このデザインは変更されたことがないのである。
変更されたことがないのに、1客として同じ絵柄が存在しないのである。

僕の事務所であるイン-ストックには6客のイタリアンフルーツのコーヒーカップが並んでいる。
執筆の合間に疲れた身体に濶を入れてくれるコーヒーを注ぐのも、出版社から足を運んでくれる編集者に供するコーヒーを注ぐのも、門下生に人生などを偉そうに説くときに、門下生が逃げ道として口を付けられるようにそこに置いておくコーヒーを注ぐのも、リチャード・ジノリのイタリアンフルーツのカップなのである。

思考が秩序を失って、僕の精神の宮殿が崩壊しそうなときに、僕はイタリアンフルーツのカップにコーヒーを注ぐ。
たかがコーヒー一杯で、思考の秩序は混乱をまぬがれたりはしないはずなのに。
しないはずなのに、僕はたった1杯のコーヒーに救われ続けている。

僕は、いまだにどうかしているに違いない。
どうかしている自分は、けっこう心地よかったりする。

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