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裸足に下駄、足袋に草履という履き物から、靴下に靴という窮屈な生活になったのは、昭和40年前後である。
アニメや漫画で、足の指を「へ」の字にそり返して描くことがあるが、日本人の足の指が「へ」の字になったのは、靴を履くようになってから

だ。

さすが宮崎駿は「もののけ姫」に登場する人物たちの足の指を、まっすぐに伸びた状態で描いている。それが日本人の足だった。靴を履くこと

で窮屈になったのである。

サザエさんの母親、フネさんが着物に割烹着を着ている。
おそらくフネさんは靴を履いていない。
草履なんだろうと想像する。

僕の実家は、三ノ輪の履物屋だった。
父親は、下駄や、草履や、雪駄を手作りする職人だった。
母親は、客の注文を受けて、父親がプレーンな状態の下駄や、草履や、雪駄に客が選んだ鼻緒をすげる。そして完成品になる。履き物の販売と

は、こうしたものだった。

僕が小学校に入学する頃に、サンダルの一大ブームが日本を席巻した。
靴はまだ履き慣れず、履き物から一足飛びに靴を履く服飾スタイルにもなじめなかった東京人にとって、サンダルは履き物のように、裸足でも

、足袋をはいていても履ける。

映画『ローマの休日』で、王女役のオードリー・ヘップバーンがサンダルを履いていた。
自由と開放の象徴がサンダルだった。
だから、昭和40年前後には、サンダルは「ヘップ」と呼ばれた。
ヘップバーンが履いていたからヘップである。

やがて、日常の和装は東京から姿を消した。
もうサザエさんの母親フネさんのような婦人はいなくなり、帰宅後の波平さんのように自宅でくつろぐときに、背広から和服に着替えるお父さ

んもいなくなっていった。

履き物は、いっきに衰退していった。

僕の両親は、決断をした。
履物屋から靴屋へと転換したのである。
のれんと屋号は「山喜屋」のまま、店内には履き物の代わりに靴やサンダルが置かれた。

東京の靴の製造拠点は、浅草の花川戸から橋場の辺りに集中していた。
花川戸は、もともとは履き物の材料を商う街だった。
それが戦後昭和の変革に押されて、靴の製造をする職人たちが集まる街になったのだ。

僕の父親は、靴の製造はしなかった。もともと履き物とは製造の仕方がまったく異なる。
「革」が「化ける」と書いて「靴」である。
靴の起源は定かではないが、ヨーロッパあるいはアラブあたりで革製のサンダルから、足全体をくるむ靴が発展していったのではないかと考え

られている。
イギリスの、ジョンロブ、エドワードグリーン、チャーチ、クロケット&ジョーンズなどといったブランドの靴は、正装には欠かせない。

結婚式や葬式では、黒のストレートチップという紐靴を履くのがマナーである。
日本では、さすがに葬式では黒靴を履くが、それでもウィングチップや、プレーントウの黒靴を平気で履いている人を見かける。黒の革靴なら

正装だろうという誤解がある。
ヨーロッパでは、とんでもないマナー違反と見なされる。
結婚式となると、茶色の靴を履いて披露宴に出席する人までいて、これは赤面ものだ。
和装にたとえると、紋付き羽織袴を着ているのに足袋も履かず、裸足に下駄を履いて人前に出るようなものだ。

僕は、いざというときのために、ジョンロブの黒いストレートチップを持っている。
玄関の靴棚には置かず、寝室のクローゼットにしまってある。
本当に、いざというときのための一足なのである。
では、普段はどんな靴を履いているかと尋ねられると、フランスのベルルッティが多い。
http://www.berluti.com/ja

1895年に初代のアレッサンドロ・ベルルッティが創業した。
アレッサンドロは、ヨーロッパを巡業するサーカス団の衣装の靴をデザインして手作りしていたらしい。だからベルルッティの靴には、いまで

も幻惑と哀愁と冒険の香りがする。

ベルルッティが使う革は、ヴェネチアンレザーと呼ばれている。
ベルルッティだけが使うことを許されている最高級の革だとされている。
もっともベルルッティ社が、そう言っているので、鵜呑みにできないが、たしかに革質は良い。

ベルルッティの靴の最大の特徴はパティーヌだろう。
靴を絵のキャンパスに見立てて、独自の色付けを施す。
黒一色でもなく、グレーでもなく、茶色でもない。光の当たり具合で、様々な色を見せる。
アレッサンドロというモデルは、初代当主の名を冠したベルルッティの基幹靴だ。

ベルルッティの日本橋店で、僕がうっかり、
「黒のアレッサンドロを買いたい」
と言ったら、
「ベルルッティには黒い靴はございません」
と笑顔で言われた。皮肉にも高慢にも聞こえたが僕は屈してしまった。
それはそうだ。ときに黒色に見える靴を欲しいと言ったつもりだった。
いま僕が履いているアレッサンドロは黒にも、グレーにも紫色にも見える一足である。

ベルルッティを代表するモデルは他にもある。
アンディ・ローファーは、こんな伝説を持っている。
1962年に若き日のアンディ・ウォーホルがイヴ・サンローランに連れられて、ベルルッティのパリ本店を訪れた。
その時にアンディに応対した4代目当主マダム・オルガ・ベルルッティがアンディ・ウォーホルの感性に捧げてデザインした。それがアンディ

・ローファーである。

僕はアンディ・ローファーの茶色い一足を履いている。
いや、茶色い靴はベルルッティにはなかったんだった。茶色にも赤色にも緑色にも見えるようにパティーヌされているアンディ・ローファーを

履いていると言い直そう。

ベルルッティでは、他に紫色にも見えるピアッシングという一足と、黒色にも茶色にも見えるオルガⅢというモデルも履いている。

ベルルッティは、おそらくビジネスマンには向かない。
デザインにエスプリが効いていて、つまりひねくれていて、なおかつ黒色でも茶色でもないパティーヌで色づけされた靴は、僕が作家だから履

いていられる靴なのだろうと思う。

1789年から革命で王権を打倒して、民衆の自由を謳ったフランス。
反骨と、自由と、束縛への拒絶を内包しながら、旧体制(アンシャン・レジーム)を変革させ、新しい社会を市民によって作り上げた自負がフ

ランスにはある。

イギリスが、王政を堅守しながら、体制秩序の基盤の上に文化も服飾も発展させてきた歴史を持ち、それゆえに伝統的な靴たち。それはストレ

ートチップだったり、ウィングチップだったり、プレーントウだったりするのだが、そうした伝統の美意識にのっとって靴を作り続けているの

に対して、フランスの靴は旧体制からの脱却をめざして、靴さえも伝統からの脱却で作り出してきたのだ。

僕は、イギリス式の伝統にも敬意を示してイギリスのジョンロブを履くいっぽうで、作家であり、支配も束縛もされない生き方を選んだという

眷恋から、フランスのベルルッティを履く。誇りというよりは、サラリーマンになれなかった自分への慰めの報酬が、ベルルッティの靴なので

ある。

「靴を磨かない人」とは、上流階級に所属していて、靴磨きは使用人に任せる人たちを指している暗喩だが、僕は「靴を磨く人」である。
靴を磨いていると、履き物職人から時代の変革に押されて、靴屋にならざるを得なかった父親が、販売のために陳列している靴を、丁寧に一足

ずつ磨いていた姿を思い出す。
せめて、最上の状態にして靴を売る。そのために靴磨きに職人技を注ぐ。

それが父親にできる旧体制からの脱却にいそしむ自分への慰めの報酬であったのだろうと思う。

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